2014年02月

2014年02月28日

神社と歴史(一)近代(24)緊縮政策と官国幣社保存金制度

諸社への緊縮政策
1873年(明治六年)、郷村社以下の経費の民費からの支給と府県社以下の神官の給与の支給が停止され、神職の俸給は氏子崇敬者の信仰に委ねられることとなりました。
1877年(明治十年)、教部省が廃止されることに伴い社寺行政は内務省社寺局に移管されることになりました。
内務省

1878年(明治十一年)、社寺は氏子檀家神官僧侶が責任を負うものとしました。
1879年(明治十二年)、府県社以下の神官官吏(かんり)としての身分を廃し、寺院僧侶と同様に取り扱われるようになり、府県社以下の神社への公的支援は無くなることとなりました。


官社への緊縮政策
 
1877年(明治十年)、官国幣社において、従来の大小宮司を宮司一名とし、禰宜(ねぎ)以下の人数も削減されることとなりました。
1885年(明治十八年)、神社経費節減政教分離の要請を背景に、官国幣社も御賽銭や寄進によって運営されることを望み、いずれ公費支給を打ち切るとした神社改正之件が内務省から大蔵省に提出されました。

官国幣社保存金制度
1887年 (明治二十年)、官国幣社保存金制度が導入され、神宮靖國神社を除く凡ての官国幣社に対して、将来的に官国幣社の経済的自立を促す目論みで、向こう十五年間に一定額を交付し、その積立金を以て神社維持の基本金とさせ、その後は、幣帛供進を除き、神社への財政的支出を打ち切ることとし、実質的には国庫支出の廃止となりました。それによって官国幣社神官が廃止され、神官の呼称を廃止し、以後、神職とすることを定め、神官は神職となりました。



mahorakususi at 18:39|PermalinkComments(0) 神社と歴史 | 近代

2014年02月27日

神社と歴史(一)近代(23)帝國憲法と教育勅語

大日本帝國憲法の公布
1889年(明治二十二年)、明治天皇より、大日本憲法発布の詔勅(しょうちょく)が出されるとともに、近代立憲主義に基づく大日本帝國憲法欽定憲法(きんていけんぽう)の形で発布され、日本は東亜細亜で初の近代憲法を有する立憲君主国家となりました。同時に、この憲法で皇室の家法である皇室典範も定められ、また、信教の自由も保証されることになり、基督教(=キリスト教)も公式に認められることとなりました。その当日、明治天皇は宮中三殿に憲法制定を奉告され、神宮官国幣社山稜に於かれても憲法発布奉告祭が行われました。
教育ニ関スル勅語




教育ニ関スル勅語
1890年(明治二十三年)、明治天皇より、教育ニ関スル勅語(=教育勅語)が渙発(かんぱつ)されました。
その趣旨は、明治維新以後の大日本帝国で、修身道徳教育の根本規範と捉えられ、忠孝や友愛、学問の大切さなど十二の徳目が我が国に於ける伝統的な徳目であると宣言され、一宗派によるものではなく、学校教育、国民生活、社会活動の指針として重要なものとされました。

十二の徳目
父母ニ孝ニ 
父母に孝行すること(孝行)
 
兄弟ニ友ニ 
兄弟は仲良くすること(友愛)
 
夫婦相和シ 
夫婦は和やかであること(夫婦の和)
 
朋友相信シ 
友達は信じあうこと(朋友の信)
 
恭儉己レヲ持シ 
慎み深いこと(謙遜)
 
博愛衆ニ及ホシ 
広く愛を施すこと(博愛)
 
學ヲ修メ業ヲ習ヒ 
勉強に励むこと(修業習学)
 
以テ智能ヲ啓發シ 
仕事に精通すること(知能啓発)
 
德器ヲ成就シ 
徳を養うこと(徳器成就)
 
進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ 
公に尽くすこと(公益世務)
世の中を良くすること(公益世務)
 
常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ 
憲法を重んじること(遵法)
法律を守ること(遵法)
 
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ 
国難に敢然と立ち向かうこと(義勇)


紀元節(二月十一日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(十一月三日)および元日四方節(一月一日)の四大節祝祭日には、学校で儀式が行われ、全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影(天皇皇后両陛下の写真)とともに奉安殿に納められ丁重に扱われました。


mahorakususi at 17:39|PermalinkComments(0) 神社と歴史 | 近代

2014年02月26日

神社と歴史(一)近代(22)世襲神職廃止と神宮奉賛会

世襲神職廃止
1871年(明治四年)、太政官布告 神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ勿論ノ事ニ候処中古以来大道ノ陵夷ニ随ヒ神官家ノ輩中ニハ神世相伝由緒ノ向モ有之候ヘ共多クハ一時補任ノ社職其儘沿襲致シ或ハ領家地頭世変ニ因リ終ニ一社ノ執務致シ居リ其余村邑小祠ノ社家等ニ至ル迄総テ世襲卜相成社入ヲ以テ家禄卜為シ一己ノ私有卜相心得候儀天下一般ノ積習ニテ神官ハ自然士民ノ別種卜相成祭政一致ノ御政体ニ相悖リ其弊害不尠候ニ付今般御改正被為在伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始メ天下大小ノ神官社家ニ至ル迄精撰補任可致旨被 仰出候事 により、神社の儀は国家の宗祀と位置づけて国家によって中央集権化し、伊勢神宮以下、すべての神官社家世襲を廃止し、神祇官および地方庁に神職の任免権を与えることで、白川家吉田家による神職管轄が終焉し、神社に対する国家支配の基礎が形づくられることになりました。

社家(しゃけ) 
代々特定神社の神職を世襲してきた家(氏族)のことを云い、律令制の崩壊とともに、神職が自分の子にその職を継がせる例が多くなり、これを社家と云いました。伊勢神宮の祭主の藤波氏、内宮 禰宜(ねぎ)の荒木田氏、外宮 禰宜の度会(わたらい)氏、出雲大社の千家(せんげ)北島、阿蘇神社の阿蘇、熱田神宮の千秋(せんしゅう)家の各氏など。
神宮奉賛会

神宮の教化活動と神宮奉賛会
このような神社、神道を取り巻く制度などの変革の波は、伊勢の神宮にとっても無縁ではなく、神宮の祭主の藤波氏、内宮 禰宜の荒木田氏、外宮 禰宜の度会氏などの世襲神職が廃されました。

御師(おんし)も廃止され、その代わりに教化のための機関として神宮教院を設置し、全国の伊勢講などの崇敬のための組織を再編成しました。また、教導職の廃止に伴い、神社や神官は教化活動が出来なくなり、教派神道としての神宮教が設立され、祓い串の御真(ぎょしん)を包んだ伊勢神宮の神札(おふだ)=神宮大麻などの頒布を担いました。

1899年(明治三十二年)、神宮教に代わり、崇敬者組織として財団法人神宮奉賛会が設立され、神宮大麻の頒布は神宮内の神部署(かんべしょ)と云う部局が携わることとなりました。



mahorakususi at 17:39|PermalinkComments(0) 神社と歴史 | 近代

2014年02月25日

神社と歴史(一)近代(21)政教分離と教派神道

神社神道と教派神道
1882年(明治十五年)、内務省による 自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノトス の達(たっし)によって、祭教分離が行われ、神官教導職が祭祀を行うことが禁止されたことで、祭祀を行う神官を続けるか、教法を説くかの選択に迫られ、祭政一致である祭祀を中心とする神社神道政教分離である宗教機能を持ち教化(=布教)を中心とする教派神道に分かれることになりました。同年、神道事務局から神宮派、大社派、扶桑派、実行派、大成派、神習派が別派特立し、この時点で国家神道(=神社神道)と教派神道が明確に区別されました。
出雲大社教 祖霊社













教派神道
(きょうはしんとう)

教派神道は、神道系宗教の総称で、宗派神道宗教神道とも云われ、その独立公認は、1876年(明治九年)、神道事務局から別派特立を許された黒住(くろずみ)教神道修成派に始まり、1882年(明治十五年)を中心に、1908年(明治四十一年)の天理教に至るまで続きました。教派神道は、国家神道体制のもとで、佛教基督教(=キリスト教)とともに、神佛基三教と呼ばれ、事実上、公認宗教の扱いを受け、各教の管長は勅任官(ちょくにんかん)待遇とされました。


教派神道十三派(きょうはしんとうじゅうさんぱ)
明治政府の宗教行政に於いて、教部省が神道の中央機関である神道事務局に、元来ばらばらに存在した民衆信仰的な宗教を所属させ、信者数など一定の条件を満たした教派を独立教派として十四教派(=神道大教、黒住教、神道修成派、神宮教、出雲大社教、枎桑教、實行教、神道大成教、神習教、御嶽教、神理教、禊教、金光教、天理教)を公認しました。1899年(明治三十二年)、神宮教が財団法人神宮奉賛会となり離脱し、行政上公認された教派神道(=神道系の教団)が十三教派となり、教派神道十三派、又は、神道十三派と呼ばれました。


神道各教派連合会
1895年(明治二十八年)、教派神道各派の相互交流を目指し、出雲大社教、黒住教、御嶽教、實行教、神習教、神道大成教、枎桑教、神宮教(のちの財団法人神宮奉斎会)八教派が参加し、神道同志会を結成しました。1899年(明治三十二年)、神道本局(神道大教)、神理教、禊教が加盟し神道懇話会と改称し、1912年(明治四十五年)に金光教、神道修成派、天理教が加盟し十三派の形が整い神道各教派連合会(=現在の教派神道連合会)と改称されました。

 


mahorakususi at 17:39|PermalinkComments(0) 神社と歴史 | 近代

2014年02月24日

神社と歴史(一)近代(20)神宮教院と神宮皇學館

神宮教院(じんぐうきょういん)
伊勢神宮の神職の養成や神道、学問の研究、文書の保存などは、明治維新の前まで、外宮の豊宮崎文庫や内宮の林崎文庫(=のちに統合された神宮文庫)が主に担っていました。明治維新後、新政府の神道国教化の推進政策(=大教宣布の詔や近代社格制度の整備など)の影響を受け、神宮でも本格的な教導職の養成機関を作り、全国への神道の布教を図る動きが起こり、1873年(明治六年)、神宮少宮司の浦田長民らが中心となり、教部省の認可を得て、神宮教院が創設されることになりました。

神宮教院本教館(じんぐうきょういんほんきょうかん)
1876年(明治九年)、神宮教院は規則の改定により、神宮教院本教館(のちの皇學館大学として新たに設置されました。神宮教院は全国を13の教区に分け布教活動を行い、また、この教区制により北は仙台、南は薩摩と全国からの学生を本教館へ確保する役割も果たすことになりました。
1881年(明治十四年)、神道国教化政策としての大教宣布の不振、そして祭神論争によって、明治維新当初の祭政一致への回帰の気運が高まり、祭教分離政教分離の方向に向いつつあり、教導職の意義が揺らいでいたこともあり、学生間の対立激化が直接の契機となって、神宮教院本教館が廃止されることとなりました。
神宮皇學館





皇學館(こうがっかん)
1882年(明治十五年)、神宮教院本教館の廃止後間もなくして、国粋主義の台頭を反映し、文明開化思想自由民権運動旧物破壊の風潮に対抗して、日本古来の歴史と伝統に基づいた学問の維持発展を目指した教育機関の再興運動が始まり、伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)より、今般林崎文庫ニ皇學館設置候条、此旨相達候事なるの令達により、林崎文庫内に皇學館が創設されました。
皇国の學(=皇學)として、日本古来の神典や国文、国史を研究する皇學館は、皇典講究所(=國學院)や東京大学の古典講習科と並んで国史学の三校として称され、皇學館の教育目的から教導職の養成はなくなり、基礎教養を授けた上で神道の専門教育を施すという新たな目標が掲げられました。


神宮皇學館(じんぐうこうがっかん)
1887年(明治二十年)、皇學館から神宮皇學館に改称され、1903年(明治三十三年)、神宮祭主 初代総裁 賀陽宮邦憲王(かやのみやくにのりおう)より令旨が下され、その建学の精神を述べられました。
神宮皇學館教育ノ趣旨ハ、皇國ノ道義ヲ講ジ、皇國ノ文學ヲ修メ、之ヲ實際ニ運用セシメ、以テ倫常ヲ厚ウシ、文明ヲ補ハントスルニ在リ。
夫レ業勤メザレバ精ナラズ、事習ハザレバ達セズ。況ンヤ本館期スル所ノ學ノ重且大ナルニ於テヲヤ。
本館學生深ク此旨ヲ體シ、常ニ師長ヲ敬重シ、館則ヲ遵守シ、黽勉努力、以テ他日ノ成業ヲ期シ、
夙夜敢テ怠ルコト勿レ。
1907年(明治三十五年)、本科卒業生に奏任官、専科卒業生に判任官相当の神職資格が付与されることとなりました。
1908年(明治三十六年)、神宮皇學館官制に基づく内務省管轄官立専門学校として認定されることとなり、高等神職や国語、漢文、歴史の中等学校教員を多数養成することとなりました。



mahorakususi at 17:39|PermalinkComments(0) 神社と歴史 | 近代
いのちの育み
Honesty is the best policy
いのちの神さま
多賀大社 多賀大明神様
お伊勢参らばお多賀へ参れ
お伊勢お多賀の子でござる

我が家のルーツを知る
喜びと感謝!
感謝の縁 境涯を拓く 奇し
伊勢の神宮様
日本人の総氏神様御鎮座
日本人の心のふるさと

『平成26年はおかげ年』

『平成27年 むすひ
人と人とを結ぶ縁〜
心の中に思い描く連想』

『平成28年 むすひ
昭和天皇 今上陛下の
式年遷宮に込められた
御製と遷宮に寄せる思い〜
神道のまめ知識など』

『平成29年 むすひ
伊勢志摩サミットと神宮
神棚の特集など』
水の神さま
貴船神社樣
大地より龍神さま立ち昇る
氣の集まる 生命の根付
心一つに 縁結びの神さま
不易の智恵文化
日月の祈り
今井大権現神社様

『和』神佛習合文化の國
くすしの智慧で築く〃今〃
健康 富 仕合わせ基盤

自然界の神々への祈り
日月星辰
家筋 血筋 家庭の安泰
カテゴリ別アーカイブ