佛教由来のことば

2013年04月12日

佛教由来のことば(3)目から鼻へ抜ける

目から鼻へ抜ける
目から鼻へ抜けるとは、非常に利口で賢いさまの喩え。
又、物事の判断がすばやく抜け目のないさまの喩え。

目から鼻に抜ける













日本昔話
大佛様の目玉

「あれ? どこだ? どこにいったんだ?」
ここは、むかしむかしの、奈良の大佛様がある東大寺です。
ある日、大佛様の目玉がぬけおちて、どこヘいったかわかりません。 
さっそく、京都や大阪から、大佛づくりの親方たちをよんできて、 
「大佛様の目玉を入れかえるには、どれほどのお金がかかる?」
と、値を見つもらせました。
すると、親方たちは、 
「千五百両は、かかる」
と、いうのです。
親方たちの考えでは、まず下で、大きな目玉をこしらえ、目玉ができたら、足場をくんで、大佛様の目にはめようというものです。 
寺の人たちは、 
「高すぎる、千両にまけろ」
と、いいますが、親方たちは、
「それでは、赤字です。こちらも商売ですから」
と、いいます。
「まけろ」
「まけられぬ」
「まけろ」
「まけられぬ」
そこへ、江戸からきた見物のひとりが、顔を出しました。 
「わしなら、二百両で、直しましょう」
それをきいた、親方たちは、 
「ばかにもほどがある。なんでこれが、二百両で直せるものか」
と、笑いました。
ところが、江戸の男は、こう考えたのです。 
(目玉がぬけおちて、見つからんとすりゃあ、大佛様のからだの中ヘおちたにちがいない。それをはめ直せばいいだけだ)
寺の人たちはお金がないので、江戸の男にたのむことにしました。 
男が目玉の穴から中に入ってさがすと、やっぱり目玉がありました。 
さっそく、かついで上にあげ、大佛様の目に、ピタッとはめました。 
坊さんや親方たちは、それを見ていましたが、 
「あいつ、目玉をはめたはいいが、じぶんはどこから出てくるつもりだ。出口はないはずだが」
と、なおも見ていると、あれ、あれ、あれっ。
なんと、大佛様の鼻の穴から出てきたのです。 
みんなは、感心して、 
「ほほう、目から鼻へぬけおったわい」
それからです。 
かしこい人のことを「目から鼻へぬける」と、言うようになったのは。


東大寺大佛殿の内部には、大佛様に向かって右に有名な「大佛様の鼻と同じサイズの穴」のあいた柱があり、実際に潜り抜けることが出来ます。
鼻の穴











 


柱の直径120㎝、穴の大きさは30㎝×37㎝。
この柱の位置が鬼門に当たるため穴が開けられたと云うことです。

この穴をくぐると無病息災のご利益があると云われています。




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2013年04月08日

佛教由来のことば(2)お釈迦になる

本日、4月8日は釈迦如来様(お釈迦様)の誕生日、
灌仏会(花まつり)の日でございます。

甘茶












それに因んで、「お釈迦になる」の言葉の由来を紹介します。

「お釈迦になる(おしゃかになる)」
不良品や製品を作り損なうこと、転じて、使い物にならなくなること、駄目になること、を「お釈迦になる」と云います。
車などが事故で廃車にする場合に、「車がお釈迦になった」とよく云ったりします。
 
語源は諸説ございますが、
その一つが、「4月8日」の釈迦如来様(お釈迦様)の誕生日と深い関係がございます。

大正から昭和にかけての頃、製鉄の町工場で製品の不良品が出てしまったことに由来します。
その原因は「火が強かった」からなのだそうですが、鍛冶職人が江戸っ子のため、「ひ」が「し」に訛って、「しがつよかった」と聞こえたそうです。
「しがつよかった」⇒「しがつようかった」⇒「しがつようか(4月8日)だ」。
4月8日はお釈迦様の誕生日から、洒落で「お釈迦」と云うようになりました。

他にも、鋳物工場で地蔵菩薩様(お地蔵様)の注文を、間違えてお釈迦様を作ってしまい、そこから「お釈迦になった」という表現が生まれたという説や、

阿弥陀如来様を作るつもりが御光の部分を失敗し釈迦如来様(お釈迦様)のようなものができたという説もございます。


佛教の開祖でいらっしゃる釈迦如来様(お釈迦様)が、このようにあまり喜ばしくない意味で引き合いに出されことに不本意ながらも、私共の日常の暮らしの中に、常に傍にいらして戴ける釈迦如来様(お釈迦様)のことを有り難く思わずにはいられません。


偉大なる悟りの境地に達した釈迦如来様(お釈迦様)のように、いい意味で「お釈迦」になりたいものでございます。



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2013年04月04日

佛教由来のことば(1)ありがとう

ありがとう(有り難う)

私達は、何気なく「ありがとう(有り難う)」という言葉を使っていますが、これも本来、佛教から来た言葉です。

 「有り難し(ありがたし)」は、「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」という意味で、本来は「滅多にない」や「珍しくて貴重だ」という意味を表していました。
形容詞「有り難し(ありがたし)」の連用形「有り難く(ありがたく)」がウ音便化し、ありがとうとなりました。
そののち、現在の「ありがとう(有り難う)」の意味で使われるようになったことに佛教がおおいに起因しています。 

ありがとう















盲亀浮木

雑阿含経(ぞうあごんきょう)の中には、
有名な盲亀浮木(もうきふぼく)の比喩が説かれています。
 
「広い海の底に一匹の亀がいます。
目が不自由です。
でも百年に一回、海面に浮上します。
大海には流木が一本流れています。
木の真ん中に亀の頭が入るほどの穴が一つあります。
百年に一回浮かび上がる亀の頭が、
その穴に入ることがあるでしょうか?」

この釈迦如来様(お釈迦様)の質問に、

十大弟子の一人、阿難(あなん)が答えました。

「そんなことは殆んど考えられません」

すると釈迦如来様(お釈迦様)は言われました。

「誰でも、そんなことはまったく有り得ないと思うだろう。

しかし、まったく無いとは言い切れないのだ。

人間に生まれることは、今の例えよりも、

さらに有り難(がた)いことなのだ」

とおっしゃいました。

これが、「有り難い」の本来の意味です。
 

三帰依文

佛教には「三帰依文」(さんきえもん)という文があります。

人身(じんしん)受け難(がた)し、今(いま)、已(すで)に受く、佛法(ぶっぽう)聞き難(がた)し、今、已(すで)に聞く。

この身今生(こんじょう)において度(ど)せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。

大衆(だいしゅう)もろともに至心(ししん)に三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し奉る。
  
みづから佛(ぶつ)に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して無上意(むじょうい)をおこさん。

みづから法(ほう)に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生(しゅじょう)とともに、深く経蔵(きょうぞう)に入りて智慧海の如くならん。

みづから僧(そう)に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生(しゅじょう)とともに、大衆を統理(とうり)して一切無礙(むげ)ならん。

佛(明るく)・法(正しく)・僧(仲良く)の三宝に帰依することの大切さを説いた文です。
人間として生まれたことは、佛になることのできる可能性を持っていることに、他なりません。
今、このことに気がつき、目覚めたこの時をおいて外に、人間としての真の自己に出会うことはありません。
もろともに三宝に帰依していくことを表明する文です。
 
その中で、
「人身(じんしん)受け難(がた)し、今(いま)、已(すで)に受く、佛法(ぶっぽう)聞き難(がた)し、今、已(すで)に聞く…」

は、「この世に生まれて、真実の法(佛法)に遭(あ)うことは難し」という意味です。


御佛様の御慈悲などで、
「貴重で」「得難いもの」を自分は戴いているというところから、
「有り難い」は、「感謝の気持ち」を表わすようになり、感謝の意味として一般にも広がることとなりました。

真に「有り難い」お話でございます。




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